箱館奉行所 公式ウェブサイト
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箱館奉行所の役割

最初の箱館奉行所はロシアの脅威に対抗
箱館奉行所は、江戸時代後期になって新たに設けられた江戸幕府の役所です。二度にわたって設置されています。
18世紀後半、鎖国体制をとっていた日本沿岸に、外国船が近づく事件が頻発するようになります。ロシアの南下政策の影響もあって、蝦夷地での接触が避けられないものとなり、日本とロシアの関係悪化が進みました。そこで幕府は、寛政11(1799)年に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にして、幕府が外交上の問題に直接かかわれる体制をつくりました。
享和2(1802)年には蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)が設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる場所(現在の元町公園)に奉行所を建てました。
(1)1800年当時のロシア船の絵(北夷談付図)
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(1)1800年当時のロシア船の絵(北夷談付図)

箱館に根拠地を置いた海商・高田屋嘉兵衛は、クナシリ(国後)・エトロフ(択捉)・ネモロ(根室)などに漁場を開拓して幕府の蝦夷地経営を助ける一方で、良好な日露関係を築くよう尽力しました。しかし幕府は財政難の問題と、対外関係の緊急の問題は去ったという判断から、1821(文政4)年に松前藩を蝦夷地に戻します。ここでいったん、箱館(松前)奉行は役割を終えました。
外国船はその後も蝦夷地の沖に姿をあらわし、天保3(1832)年には椴法華沖、天保5年には矢不来沖(現在の北斗市茂辺地付近)に異国の船があらわれたという記録が残っています。おそらく、この他にも多くの外国船が日本沿岸に近づいた事例がありました。
(2)当時のロシア士官の絵(異国人の絵)
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(2)当時のロシア士官の絵(異国人之絵)

ペリー艦隊来航と再度の箱館奉行所設置
そしてついに、嘉永6(1853)年にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航します。翌年(嘉永7年/安政元年)には日米和親条約が締結され、下田と箱館の開港が決定されました。ペリー艦隊は同年4月に箱館に入港しています。このとき幕府からペリー提督の応接を命じられたのは、松前藩家老・松前勘解由らでした。
幕府はペリーが箱館を去った翌月に、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、箱館および周辺5〜6里(1里は約4km)四方(現在の函館市・七飯町大沼・木古内町札苅までの一帯)を松前藩から上知して(取り上げて)幕府直轄地としました。さらに、その翌年の安政2(1855)年、松前藩から福山周辺を除く蝦夷地の全領地を上知しています。
再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との応接(外交交渉)、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地の統治でした。開港場となった箱館には、各国の領事館が置かれ、箱館奉行所は外国との重要な窓口となりました。
(3)ペリー艦隊来箱時の絵図(亜墨利加船松前箱館湊江入津之図)
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(3)ペリー艦隊来箱時の絵図
(亜墨利加船松前箱館湊江入津之図)

ペリー艦隊来箱時の絵図
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(4)奥州箱館之図(部分)
文久年間(1862年頃)の函館の絵図
赤線で囲った部分が箱館御役所、現在の元町公園付近

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