箱館奉行所 公式ウェブサイト
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箱館戦争の7か月

大政奉還で奉行所は新政府に移管
慶応3(1867)年、15代将軍・徳川慶喜は、将軍職を辞して政権を朝廷に返還し、ついに江戸幕府は崩壊しました。箱館奉行所が五稜郭へ移転してから、わずか4年足らずでの出来事でした。
大政奉還の翌年、最後の箱館奉行となった杉浦誠は、明治政府の総督・清水谷公考と対面し、蝦夷地全域を新政権に引き継ぎ、奉行所と五稜郭を明け渡しました。この数日後、奉行所は箱館裁判所(明治新政府による地方行政機関の名称。現代の裁判所とは異なる。)として開庁し、さらに箱館府と改称されて蝦夷地開拓の役割を果たすことになりました。
この粛々とした引き継ぎから半年後、五稜郭は戦場になります。

旧幕府脱走軍による五稜郭占拠
明治元(1868)年8月、旧幕府軍海軍副総裁・榎本武揚は、旧幕府軍主力艦隊8隻を率いて品川沖を脱走します。仙台で新撰組をふくむ旧幕府陸軍と合流し、10月20日に鷲ノ木(現在の森町)から蝦夷地に上陸しました。戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争の始まりです。
隊を分けて箱館に進軍した旧幕府脱走軍と箱館府軍や松前藩軍は、峠下や川汲峠で交戦し、旧幕府脱走軍が撃破しました。この報告を受けた箱館府知事・清水谷公考は、10月25日に青森へ退却し、翌26日に旧幕府脱走軍は無人の五稜郭を占拠しました。さらに、旧幕府脱走軍は、松前・江差へ進軍し蝦夷地全域を制圧しました。
(8)箱館戦争図
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(8)箱館戦争図

戦況は新政府軍が圧倒、旧幕府脱走軍は降伏
翌明治2(1869)年春、新政府軍は反撃を開始します。4月9日、乙部に上陸した新政府軍は、三方から箱館に向かって進軍。圧倒的な戦力差により、4月末には箱館を除く道南各地をほぼ制圧しました。
5月11日、新政府軍は箱館総攻撃をおこないます。四稜郭が陥落し、箱館市街は新政府軍が制圧しました。元新撰組副長・土方歳三が戦死、箱館港では旧幕府脱走軍の艦隊が全滅しました。五稜郭からは、土塁の上に配置したカノン砲を七重浜方面に向けて援護射撃しましたが、射程距離は短く港まで砲弾は届きませんでした。
(9)五月十二日於五稜郭防衛戦之図(麦叢録附図)
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(9)五月十二日於五稜郭防衛戦之図(麦叢録附図)

5月12日、箱館港に碇泊した新政府軍の軍艦「甲鉄」は、五稜郭に向かって艦砲射撃をおこなっています。甲鉄の大砲は射程距離が4km以上あり、港から約3kmの位置にあった五稜郭にも充分に砲弾が届く強力なものでした。砲弾は役所の太鼓櫓に命中し、数人の死傷者が出ました。箱館奉行所は、外国船からの艦砲射撃を避けて五稜郭に移転したはずですが、五稜郭築造からおよそ10年で、大砲の性能は格段に進化していたわけです。
15日には弁天岬台場が降伏、16日には中島三郎助父子の戦死により千代ヶ岡陣屋が陥落。そして18日、ついに五稜郭が降伏し、7か月におよんだ箱館戦争が終結しました。
(10)戊辰五月東軍之諸将於五稜郭酒宴之図
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(10)戊辰五月東軍之諸将於五稜郭酒宴之図

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